モイズ・キスリング Moise Kisling

作家情報

国籍
ポーランド   
生年月日
1891/01/22 
享年
1953 
性別
男 
概要
エコール・ド・パリ(パリ派)のポーランド人の画家。
キスリングは、20代後半には画家として成功し、パリ派の陽気で面倒見の良いリーダーだった。「モンパルナスの帝王」とも呼ばれた。自殺したパスキン、アルコール中毒のモディリアーニ、ユトリロなど破滅型のイメージの強いエコール・ド・パリの画家たちの中では珍しく幸福な生涯を送った画家である。
スイス・ジュネーヴのプティ・パレ美術館に、世界最大のコレクションがある。
引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%82%A4%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0
 
来歴
モイズ・キスリングポーランド南部の町クラクフでユダヤ人の子として生まれた。
ユダヤ人でありながら本人は無神論者であり、自身の名前モイズも旧約聖書の「モーゼ」を意味することから自身の名前が嫌いだった。
だから作品にはモイズとサインすることはなかったいう。
小さい頃から彫刻に興味があり、美術学校の彫刻科に進もうとしたが定員いっぱいで進めず、絵画科で学ぶことになった。
学校でキスリングのデッサン力が認められパリ行きを勧められたことから、1910年パリで学ぶことを決断した。
パリではピカソ、マティス、モディリアーニらと知り合い前衛絵画の技法も学んだが、そうした技法よりも何を描くかといったことに重要性を感じた。
1914年第一次大戦で外人部隊に志願したが戦場で負傷し、治療のためスペインへ、そこでマリー・ローランサンと知り合う。
その後、パリに戻りフランス軍高官の娘と結婚し、個展にも成功し生活は順風満帆の人生が開けていった、モンパルナスにアトリエがあったことから「モンパルナスの帝王」と言われるようになった。
しかし、第二次世界大戦が始まるとユダヤ人であったキスリングはドイツに占領されたフランスにはいられずアメリカに亡命することとなった。
アメリカでもキスリングの人気は高く、温厚でユーモアにあふれ人づき合いの良い彼は同じ亡命画家たちを経済的に支援した。
戦争が終わりパリに戻ったキスリングは再び精力的に活動をするが1953年病に倒れ、62年の生涯を閉じる。
引用元:https://artmuseum.jpn.org/profilekisling.html
 
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