タイガー立石

作家情報

国籍
日本   
生年月日
1941/12/20 
享年
1998 
性別
男 
概要
タイガー立石は1964年に同じく画家の中村宏とともに「観光芸術協会」を結成。時は60年代、既存の芸術の枠組みを逸脱せんとする「反芸術論」がさかんな時代。観光芸術と称して日本的なポップ・アートを次々と発表し、1960年代後半からは活動の場を漫画の世界へと移します。世代の近い漫画家・赤塚不二夫と相互に影響を与え合いつつ、ナンセンスな笑いを生み出しました。
引用元:https://nostos.jp/archives/108629
 
来歴
筑豊の炭鉱町に出生、少年時代を戦後復興から高度成長期の時代、映画、昭和歌謡など文化の中で過ごした。武蔵野美術短期大学への進学・上京を期に美術活動開始、最初は本名で活動し、画家中村宏と「観光芸術協会」を結成、わずか2年で解散するも中村ともどもアバンギャルドな作風・活動方針(雑踏の中で自作を掲げて歩く路上歩行展など)で一時代を築いた。
1968年にタイガー立石に改名、漫画家として活動。公私に渡り関わりが深かった赤塚不二夫に影響されたギャグタッチの作品を多く残した。ペンネーム・タイガーの由来は立石が寅年生まれだからで、生涯美術作品にも虎をモチーフにしたものが少なくなかった。
漫画家として活動が軌道に乗った矢先突然漫画家として活動を打ち切り、妻とイタリアへ移住。 「環境を変えることこそが創作意欲を刺激する。ひとところへの安住・現状への満足は拒否」というこのスタンスは立石の生涯最後まで貫かれたモットーであった。なお、立石はイタリア以外の国も含め計13年間ヨーロッパ滞在・活動継続したが、この間イタリアでは、コマ割り絵画(漫画のコマ割りだけでなくストーリー性も持ち込んだ)を発表、また美術・商業双方の建築・デザイン・イラストレーションなど仕事の実績を積んだ。なお、1971年にはオリベッティ社配下のエットレ・ソットサスのデザイン研究所に在籍している。
1982年の帰国の理由は「安住への拒否」であった。帰国後は絵本を上梓。1980年代の『たくさんのふしぎ』では、森毅や野崎昭弘の文による、数理をテーマとした絵本の絵を担当した、といった作品もある。1990年、ペンネームを立石大河亞(たていし たいがあ)に改名する。1990年代には作陶を開始、1995年に養老渓谷にアトリエ兼住居を移した。立石従来の作品殆どが絵画・漫画等「平面もの」だったので、立体作品に取り組みたいという意識があったのだろう。立体作品には上・横のいずれの方向からみてもあらゆる違った趣のある作品が多く誕生、もちろん従来からの絵画も充実させ、続々新作を発表。
1998年、肺がんのため56歳で死去。
引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%AC%E3%83%BC%E7%AB%8B%E7%9F%B3
 
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作品一覧

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